私は、西洋美術の古典とされるミケランジェロやカラバッジョ、さらには古代ギリシア・ローマの彫刻家たちは同性愛者(あるいは両性愛者)であったと思っている。同じつくり手として、同性愛者ならではの視点がなければ成し得ないような造形や描写が随所に現れていることを感じるからだ。私はこの視点を「同性愛的な美意識」と呼んでいる。

日本美術に目を移すと、運慶(慶派)の作品についても近しい美意識を見て取れる。ただし、運慶が制作を指揮した作品は、ミケランジェロのように個人ではなく、工房にて多くの人の手でつくられたものである。ゆえにこの美意識は薄まっているものの、その奥には運慶が見据えていたリアリティが確実に詰め込まれていると感じられる。

「同性愛的な美意識」とは、必ずしもゲイ・アートのような直接的な同性愛表現を指さない。歴史的に見て、美術は宗教美術に端を発しており、どの宗教でも女性を排した男性中心の社会が形成されてきた。つくり手となるアーティストもまた、近代までは男性しかその役を担えなかったのだ。こうした男性中心のホモソーシャルなコミュニティの中で表現された「理想的な肉体」の多くは、「男性像」である。私の疑問は、なぜこうした「同性愛的な美意識」が、ヘテロセクシャルが多数派を占める社会において、名作として男女問わず享受されてきたのかということだ。

大理石であろうが、寄木の木彫であろうが、シリコンの彫刻であろうが、人物彫刻をリアリズムの手法でつくることは、大変な肉体的負担を要する。にもかかわらず、そうしたスタイルを選択せずにはいられない衝動的な美への欲求が人物彫刻にはある。その欲求の強度こそが、「同性愛的な美意識」を「普遍的な美意識」に昇華させるのではないだろうか。

私の制作行為は、過去の名作の中に特異点的に現れた「同性愛的な美意識」をシミュレーションすることから始まる。先人たちの名作をシミュレーションすることで、彼らの衝動を追体験し、また、私自身の衝動も重ねながら彫刻に向き合う。美術史の裏側に隠された「美意識」を、私というフィルターで強調することによって、美術史に新たなリアリティを与えることが、私が彫刻を通して挑むテーマである。

上路市剛